予兆

1999年8月25日、長野県白馬乗鞍。
私はペンション「かたんこ」で、生活していた。

その日はとてつもない悪夢にうなされた。
怖い夢を見て、飛び起きるというやつだ。
それを初めて体験した。
こんな体験は、22年間生きてきて一度もない。

そのおおよそ10日後。
悪夢は現実となった。

まるでドラマのワンシーンのようだった。

今から4年前、1999年の9月5日、正午。
「病院に着いた時にはもう・・・」

どこかで聞いた台詞だ。
この一報を聞いたのは山形県鶴岡駅。

少し時間を戻そう。

前日の9月4日、私は短大時代の友人と集って宴会をしていた。
第2の故郷である東北。ゆかりの地での友との再会だった。

東北各地から友人が集まっていた。
場所は、山形県鮭川村の友人宅。
1泊2日の東北旅行だった。

翌日、車で鶴岡駅まで送ってもらう途中の出来事だった。
父親が、山で遭難しているとの連絡を受けた。

「山で遭難?夏だぜ今は」

一体どういう訳なのか検討がつかない。
その後、警察から連絡を受けた。

一郎くんが、剣岳にて、滑落事故にあったと。
救助活動中だという。

とにかく、病院に向かってくれ、と言われた。
その時、初めて動揺が走った。

友人には、急いで帰らなければならないとだけ伝えた。
間もなく、鶴岡駅に到着するという時に、携帯電話が鳴った。
しかし、すぐに切れた。

覚悟した。
一郎くんは死んだかもしれないと。

虫の知らせだった。

その後、鶴岡駅に到着し、友達と別れた。
また電話が鳴った。

さっき電話が切れたのは、友達への心配りだったのだろうか。
「何だよ。。。一体。。。」

大阪へ

山形県鶴岡市から電車に乗り、新潟県上越市まで。
長い長い電車だった。

思考が止まり、一郎くんの顔だけが浮かんだ。
自分が、そこにいない感じだった。

上越市から車に乗り換え、富山県富山市へ。
着いたのは夜だった。

警察に誘導され、富山県立中央病院へ。
そこで見た一郎くんは間違いなく死体だった。

対面した時涙があふれた。

あの一郎くんが・・・

あの元気な父ちゃんが・・・

名物親父が・・・

悲しみなんてもんじゃない。

ただ涙があふれて止まらなかった。
思いきり泣いた。

死んだことが悔しかった。

俺は、まだあんたに、スキーヤーとして結果を見せていない。
俺は、スキーヤーとして、一流になりたかった。

姿勢を伝えたかった。
それが一郎くんへの挑戦だった。

俺はまだ結果を出してない。
先に行くな。

俺は、一郎くんの背中を追いかけてた。
ずっと追いかけてた。

あんたに、認められたかった。
駄田井一孝、という人間を。

富山県立中央病院から、大阪へ帰ることになった。
また長い旅が始まる。
長い長い夜だった。

一郎くんに、質問したことがある。

「一郎くんはどんな人間になりたい?」
一郎くんは、答えた。
「人と生きることや」

もう一つ聞いた。
「どんな生活を望んでる?」
「今の生活が気に入ってる」
「そっか」

家族の待つ家路に向かう。
「そういや、2ヶ月くらい家族に会ってないな。大阪に帰るのも久しぶりや」

やっと、大阪府堺市にある自宅へ着いた。
着いたのは朝方だった。

親戚が集まっていた。
みんなが、一郎くんを迎えてくれた。

その時、思った。
本当に、一郎くんは死んだんやな。。。

通夜

その日の事はよく覚えていない。
とにかくやる事が多かった。

「徹夜なんて初めてや」

ただ、自分で、これだけは決めていた。
今の俺は、弱気にはなれない。
家族を支えるのは、俺だ。

お通夜には、中学や高校の友達、地元北野田の仲間。
また、全国各地から、人が駆けつけてくれた。

「同窓会やな」と、思った。
通夜の後は、いつもの北野田のメンバーが残った。

「しんみりしてるのもおもしろうない。飲もか」

夜通しで飲んでやろうと思った。
どうせ、一郎くんは楽しいのが好きやろう。

夜中まで、俺の友達は、ずっと側にいてくれた。
ありがたかった。
ようやく眠れそうだ。

次の日も、友達は側にいてくれた。
なほ、まなみ、ありがとう。

葬式の夜も相変わらず同窓会だった。
みんな、口々に言った。

「これから飲みに行くわ」

その日、岩手から花が届いた。
お世話になっているスキーチームの方々から届けられたものだ。

ありがとう。
心遣いがただただ心に沁みた。
この瞬間の事は今でも鮮明に覚えている。

後日、居酒屋でバイトしていた中学の同級生に聞いた話だ。

「昨日はすごいお客さんがいっぱい来てな。みんな礼服や。
一孝の親父の葬式帰りやろ。すごい人数や」

北野田駅付近は、礼服の人であふれかえっていた。
2日間で訪れてくれた人は、700人を超えた。
この人数は、北野田の記録になった。

スキーヤーとして

21歳の時、一郎くんと約束したことがある。
短大卒業後、一郎くんに頼んだことだ。

「モーグルスキーを本気でやりたいんや。3年間選手をさせてくれ」
「全国大会に出たいんや。結果を出すから」

一郎くんはよく言っていた。
「人というのは、姿勢を見れば分かる」

そしてこうも言っていた。
「結果がすべてだ」と。

自分が全国大会に出ること。
それが一郎くんに示せる、自分なりの一流の姿勢だと思った。

一郎くんは言った。
「好きなことをやれ。ワシャ応援する」

なんだか泣きそうになった。
どうやら、涙もろいらしい。

ある時、両親に言った。
「スキーをやる以上、誰にも迷惑をかけない」

「じゃあ、一孝が大怪我でもしたら、誰が治療費を払うんや」
「うっ」
そういえば、健康保険さえ自分で払っていない。

少なくとも、私は家族に恵まれた。
だから、スキーをすることが出来た。
この事は、一番両親に感謝している。
両親のおかげだ。

その当時の私の生活は、半年間は山に籠り雪上トレーニング。
春から夏にかけて、肉体労働と筋力トレーニングをこなす。

夏はカナダへ合宿に行き、その後、ウォータージャンプという施設でエアのトレーニング。
そして、秋から冬まで肉体労働と筋力トレーニングの繰り返しだった。

一郎くんは、長野県でペンションをやっていたこともあり、モーグルスキーヤーの上村愛子のこともよく知っていた。(愛子のお母ちゃんは白馬村でペンションをやっている)

「毎日、走ってるよ。彼女は。
あれが人の姿勢や。やるべきことをやる。結果を出す」
「その通りや」と思った。

カナダの合宿では、コーチとしてソルトレイクオリンピックの金メダリスト、ヤンネ・ラハテラ。
元全日本モーグルコーチ、スティーブ・フェアレン。
選手として里谷多英、上村愛子などそうそうたるメンバーが参加していた。

メンタル面、フィジカル面すべてにおいて一流だった。

この時に、後にスキーの師匠となる、岩手県フリースタイルチームの牛崎雅之さんに出会った。
雅之さんと一緒にトレーニングをしたいとお願いすると、雅之さんは快く私を岩手に迎え入れてくれた。

一流のアスリート達と触れることが、私の人生においてどれだけ影響をおよぼしたのか。
そう考えると、人との出会いがいかに大切であるかを実感できる。
だから、私は、常に出会いを求めるのだろう。

夢の舞台へ

モーグルスキーの競技を始めて3年後の冬、念願の全国大会への出場が決まった。
2001年長野飯山国体、斑尾高原スキー場。
大阪代表選手として出場を果たした。

私が、23歳の時のことである。

スタート地点に立った時、今まで私を支えてくれたいろんな人達への
感謝の気持ちで一杯だった。

「俺はやるべきことをやった。結果は一郎くんにまかせる」

スタート地点に、もうひとり、私の大好きな人がいた。
岩手県フリースタイルコーチである、菅原徹さん。

尊敬を込めて、徹さんと呼んでいる。

私のスキーのスタイルは、岩手で学んだものだ。
雅之さん、徹さん、チームメイトが、ずっと面倒を見てくれた。

よく家に泊めてもらった。
スキーを教えてくれた。
時には飲み明かした。
共に練習に励み、共に試合へ挑んだ。

私の正式な所属チームは、大阪府DIG-IN HOT&CRAZY。
所属は岩手県ではない。

にも関わらず徹さんは、スタート地点の横で見守ってくれていた。
最高にうれしかった。
あの場面は、一生忘れることはないだろう。

スタート直後、いける!と思った。
しかし、斑尾の斜面はそう簡単に攻略できるものではなかった。

最大斜度33度。平均斜度29度の急斜面。
前日の大雪でコースは荒れ、稀にみる難コースとなっていた。

夢中で滑った。

第1エアの着地で、大きくバランスを崩した。
その後、なんとか立て直し完走した。

結果は75人中、55位。

結果に対しては、満足だった。
たくさんの人が応援してくれた。

選手の仲間たち。
ペンションドレミの森のオーナー、奥さん。
ロッジベルクラントのスタッフのみんな。
大阪から駆けつけてくれた、一郎くんのお姉さん、さつきさん。
そして真樹。

みんなと生きててよかった。
それが本当にうれしかった。

そして今も

お世話になった人たちは、この場では書ききれない。
感謝の気持ちよりも、行動で恩返ししたいと思う。

仲間と共に生きてきたこと。
この時代に生まれたことを誇りに思う。

すべての事は、必然である。
無駄な事など、ひとつもない。
すべてのものを大切に。

スキー競技をしていた3年間は、かけがえのない青春時代となった。

そこから学んだことが、今につながっている。
そして今日は未来につながっている。

「一郎くん、あの世で会おう」

息子一孝 2003.11.22