駄田井一郎君の思い出

~青春を共に生きた。そして、彼は忽然と逝った~

私が関西大学混成合唱団「葦」に入団したのは、大学二年生(一九七二年)の春でした。新入生勧誘のために講義開始前の教室に、ぞろぞろ入って来た若者達が合唱した、「心さわぐ青春の歌」がすっかり気にいって、自分も歌ってみたい、と思ったのが入団の動機でした。これが駄田井一郎君と私との出会いです。以後、彼が死んでしまった今日まで、少なくとも、私にとっては、彼の徳を一方的に得るばかりの関係でした。

ただただ、感謝の気持ちで一杯です。きっと、私と同じ気持ちのたくさんの人々がいるのではないでしょうか。お通夜や、お葬式に駆けつけた人々の列を見ながら、そう思いました。彼には、いったい幾つの顔があったのでしょう。

・十年先を行く(?)日本共産党員。
・わらび座公演の大阪事務局。
・北野田おとん・おかん村の村長。
・麦の子保育園の理事。
・有限会社夢企画代表。
・白馬乗鞍のロッジ「かたんこ」の共同経営者。
・三協国際特許事務所のやり手グループ長。
・(失礼ながら)たくさんの女性達の希望の星。
・長男一孝君、次男里洋君の父親。そして、夫。

私が知り得た駄田井一郎という人は、そのような人でした。私の知らない、もっとたくさんの顔を持つ人であったことも、あの長い長いお弔いの人々の列から想像されました。軽い冗談は別として、その人柄について、悪口を言う人が、ただの一人もいない、誰からも好かれ、愛される人でした。 

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まいど!の一ちゃん

河内弁の気のいい(だけど奥の深い)おっさんでした。電話をすれば、マンガ「南大阪信用金庫」の主人公ナカやんとまったく同じ口調で「まいど!」と切り出して、とても聞いては貰えないだろうと思える無理難題を「ヨッシャ判った、ヤッテみるさかい」と、取り敢えず引き受けてくれて、出来るだけの努力をしてくれる人でした。

葬儀の際会った小学校からの同級生と言う女性の方のあの涙がその証でした。田舎者で、共産党嫌い、せいぜい社共共闘止まりの私を、何故、彼は受け入れたのでしょう。それこそが、彼の真骨頂ではないでしょうか。

クラゲのように形が無く何でも飲み込んでしまう人?そうだ、私が、あえて駄田井君を評すれば、「クラゲのような人」だったと思うのです。(奴は、私のことを何と思っていたのでしょう。もう、今となっては聞くすべもありませんが、確かめておくべきでした。) 

理洋?里洋?

しかし、何人かの同窓生にも確かめたのですが、彼の次男里洋(リヨウ)君の名は、私の名前、理洋(合唱団での呼び名「リヨウ」から来たらしいのです。私とすれば、里洋君に申し訳なく「駄田井は、アホとちゃうか?」と言いたい、恥ずかしい気がします。

里洋君がまだ、保育園に通っていた時分、奴の家に泊めてもらった日の朝、奴は息子に「リヨウ、おっちゃんの名前聞いてみぃ」と言い、私から「おっちゃんの名前はナ、リヨウや。」と聞いて大混乱に陥った里洋君の姿が忘れ難く、今も彼に会うと、申し訳ない気分になるのです。 

不死身の一郎

この「乱杭」を出し始めた一九八五の翌年十一月、彼は、それこそ死んでもおかしくない大火傷を負い、そこから奇跡的に復活した後「ワシは、不死身や!」と豪語していました。その間の壮絶な闘病記録は、八七年八月一日から「風景画の人として」と副題の付いた彼の個人紙「風影」に、連載『激痛』として記され、以後「風景」は九五年一月一日第五十五号まで送られてきました。

九月五日、九十四年から始めた延岡第九を歌う会の今年十一回目の練習日。練習を終えて夕方帰宅し、風呂に入ってさっぱりして、ビールなんぞを飲んで寛いでいた所へ奈良の西岡秀起さんから電話があり「駄田井君が亡くなったらしい。」と知らされました。頭が混乱し、返答する声が出ず、受話器を持つ手がカタカタ小刻みに震えていた。「ソンナ、アホナ。」

直ぐに「葦」の先輩で、長野県小谷村でペンションをされている森田恒夫さんに電話を入れたのです。森田さんとは、先に電話を下さった西岡さんや駄田井君と共に、二ヶ月前の七月三日に吹田市千里山の関大構内、大学百周年記念会館で開催された「葦」の同窓会で再会して、キタの新地の二次会の後、我々二人は、新大阪の同じホテルに泊まったばかり。(断っておきますが、私と森田さんはヘンナ関係ではありません。勿論、別々の部屋。)

第六回を数える「葦」同窓会には、毎回案内をいただきながら出席できず、今回、どうした訳だかヒョイと「行こう。」と思い立って出掛けたのです。今にして思えば、駄田井君が私を呼んだとしか思えないのです。同窓会の前夜は、彼に、前々からの約束で、実現していなかった鶴橋の焼き肉屋「鶴一」へ案内してもらいました。

彼は「食べー、食べー」と言うばかりで箸が進みませんでした。私も飲んでばかりいました。彼は、私との約束をキチンと片づけて逝きました。

キタの店を出て「ホンナラ、マタナ!」と別れたのが、彼を見た最後です。駄田井君の長男一孝君は森田さんのペンションでよくバイトをしており、もっと詳しい情報が判るかも知れない、と思い電話しました。やはり、森田さんは一孝君の携帯の番号をご存知で、他からの連絡の後、「何かあったんやないか」と彼の携帯に電話を入れたところ、既に富山の病院に駆けつけていた彼は、「山(剣岳)から落ちて、一郎君が死んだんヤ。」と涙声で話してくれたそうです。

翌六日、大嫌いな飛行機に乗って大阪へ飛び、堺市北野田の彼の自宅近くの西宝寺で行なわれたお通夜に出席しました。たくさんの出席者があって、お焼香もそこそこ。奥様に声を掛けることすらできない混雑でした。そんな中、森田さん、西岡さんの顔を見つけ、更に二十五年ぶりに見る仲間達が集まり、せっかくだからその辺で同窓会をしようということになって、南海線北野田駅近くの居酒屋で、「葦」の内輪のお通夜をしました。

出席者は、うんと先輩の東さん。それに、飯田、宇根岡、森、西、池田(白石)、木下(早苗ちゃん)、原田、奥西、森田、西岡さん。

「乾杯しょう。」「いや通夜だから献杯だ。」と彼の通夜らしい会でした。午後十時前「人も引けただろう。」ともう一度寺へ行くことになり、ヒッソリとなった本堂で彼とお別れをしました。二百メートルの滑落を物語るように、顔にはあちこちに切り傷がありました。

涙でクシャクシャになった里洋君が哀れでした。その夜は、西岡さんの奈良のお家に泊めていただき翌日の葬儀に出席しました。

新今宮から乗った南海高野線の車両にもたくさんの参列者が同乗されていて駅からの道案内には、駄田井君と一緒に延岡へゴルフをしに来たタキグチさんの姿もありました。お葬式も、司会が「お焼香は、一摘み一回でお願いします。」と言うほど多くの参列者で、通夜には来れなかったたくさんの「葦」の仲間も来ていました。

あまりにも申し出が多すぎたためか、若しくわ皆、呆気に取られて忘れていたのか、弔辞はなし。会葬お礼で奥様が「時々は一郎を思い出してやってください。」と言われた。

私は、九月五日の夜からずっと、ずっと彼のことを考えていて、もう疲れた。心の中で「心さわぐ青春の歌」を歌って彼の柩を見送りました。

帰路、一年後輩の藤井君が「これから同窓会をやろう。」と言いだし「昨夜もやったけど、俺はいいよ。付き合うよ。」と言うと皆もぞろぞろついてきて、また駅前で、精進揚げならぬ「葦」の同窓会。参加者は、森田さん、水谷、香田、奥井、矢野、奥西、藤井、今田、堀部、杉本、菊政、前山のみなさん。カエルちゃんやクマ、ブーちゃん。みんな、いいオッサンやオバサンになっていた。

ただし、既におじいちゃんになってしまったのは、私だけ。駄田井一郎君、さようなら。私は、絶対に君のことを忘れない。

佐藤理洋